足立佑介‘s diary

日々の気づきを投稿するブログ。noteもやっておりますのでご覧ください。https://note.com/viability

【堤康次郎②】奉仕の精神

こんにちは。

 

足立佑介です。

 

本日は、堤康次郎さんです。

 

前回に引き続きこの方です。

 

彼は軽井沢に80万坪の土地を当時の価格3万円で買収。
当時は30歳にも満たない青年でした。

当時の3万円は今では何十億、何百億に相当します。

これだけのキャッシュを30歳にも満たない堤がどうやって用意したのか?

それは謎です。

ですが、想像もつかないほどのリスクだったのではないでしょうか。

 

この青年が西武グループを築く堤康次郎です。

つまりこの軽井沢開発が、次々と事業に失敗した後の西武大国を築くルーツとなっているのです。

 

数々の失敗をしてから彼は、
「もうけようと考えたのがいけない。この世の中のために少しでもできるだけのことをしよう。まずは不毛地の開発事業だ。」と考え至ったそうです。

 

儲かっている会社は必ず事業、サービスを通じて社会貢献をしているのです。

これなくして継続して利益を出すことはできません。

そしてトップが必ず私欲ではなく世のため人のために尽くそうという気持ちで事業やサービスを展開しています。

利益だけを追求すると目先はいいように見えても長続きはしません。

 

世の中に貢献します。

 

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【堤康次郎】今を熱心に生きる

こんにちは。

 

足立佑介です。

 

本日は、堤康次郎さんです。

 

西武グループ創業者。

昭和27年衆議院議員

昭和28年衆議院議員議長。

 

彼が人事上の大抜擢をしたお話しです。

 

敗戦から2年後、就職しようにも新たに採用などする会社などない時代。
「便所掃除と風呂番ぐらいはできます」といって、軽井沢のホテルに雇ってもらった男がいました。

 

彼は仕事にありつけただけでも大喜びで、
毎日早朝は便所掃除、夜は風呂の掃除と与えられた仕事に没頭したのです。

 

朝の5時便所掃除をしていると、決まって顔を合わせる客がいました。
その客は常連客のように来館しており、そのうち声をかけられるようになったそうです。

この声をかけた客こそ、西武グループの創業者の堤康次郎であったのです。

当時はみな「大将」と呼んでいたそうです。

 

それから風呂場でも大将と顔を合わすようになり、背中を流すようになりました。

大将は駒村の仕事への実直ぶりと勉強熱心な人柄に大変感心したそうです。

 

それから数年後のある日、駒村はグリーンホテルの支配人から呼び出されました。

支配人室に出向くと、支配人に「駒村君、君が僕の後任だ」と、
駒村は最初何を言われているのか分からなかったようですが、それは大将じきじきの人事だったのです。

 

清掃員が支配人に抜擢されたのですから大騒ぎですね。

 

「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ」

これは阪急グループの創業者、小林一三さんの言葉です。

 

今、目の前のことを熱心に取り組む。

情報化社会で目移りもしやすい今の世の中だからこそ求められる能力なのかもしれませんね。

 

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【田中角栄】一言の重み

こんにちは。

 

足立佑介です。

 

本日は、田中角栄さんです。

 

佐藤栄作元首相の秘書の思い出話です。

 

年の暮れ、都内のホテルで佐藤首相と田中幹事長とが会談をしていました。

会談終わりに、田中幹事長がホテルを出られるので玄関までお見送り行きます。

すると田中幹事長の車の窓があき、こちらに手招き。

近づいて行くと、田中幹事長が「年は越せるかい」と声をかけてきたと言います。

「はい」と答えると「何かあったら何時でも私のところに言ってきなさい」と言われたそうです。

 

それ以来、秘書はどんなに辛いことがあっても、これ位のことで田中先生に頼っては申訳ない。

そう思って日々を頑張ったそうです。

田中先生の言葉が自分の支えとなっており、感謝をしていると。

 

佐藤栄作の秘書にも声をかける優しさだけでなく、たった一言がその人の生涯の励みになっているのです。

凄いです。

 

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【田中角栄】約束を守るパワフルさ

こんにちは。

 

足立佑介です。

本日は、田中角栄です。

 

約束を守ることが人との信頼関係を築くポイントです。

 

自民党副総裁まで登り詰めた二階堂進は「趣味は田中角栄」と言っていたそうです。

田中の方が9歳も年下であるのにも関わらず。

 

その要因となるエピソードが下記です。

 

二階堂が衆院商工委員長に就任した時、二階堂のもとにジェトロ(日本貿易振興会)会長の杉道助が訪れて来ました。

ジェトロは前々から5億円の政府出資を強く求めていましたが、大蔵省査定は毎年ゼロでした。

杉は、「これだけは是が非でも獲得してほしい。私の冥土のみやげにしたい」と懇願してきました。

 

杉は大阪商工会議所会頭を長年つとめ、関西財界の重鎮でジェトロ生みの親です。

既に79歳の高齢であるがジェトロにかける杉の情熱に心打たれた二階堂は承諾しました。

 

そして若き大蔵大臣であった田中角栄を訪ね直談判したのです。

田中は「わかりました。約束しましょう」とあっさりとOK。

 

しかし事務次官折衝の段階で削られ、ジェトロ担当官庁の通産省も降りてしまっていました。

予算案ができあがり、閣議に持ち込まれる直前に、杉会長から「5億円が入っていません」と電話がかかってきました。

 

二階堂は慌てて大蔵大臣室に駆け込んで詰め寄りました。

そうすると田中は、直ぐに主計局長を呼び「大臣命令だ」と5億円の計上をその場で指示したのです。

 

杉は翌年死去し言葉どおり冥土のみやげになりました。

「あの時の男の約束が田中さんと私の最初の人間的な出会いであった」と後に二階堂は述懐。

竹下登が創政会を旗揚げした時も、二階堂は最後まで田中を支えたそうです。

 

これほどまでに約束を守るという行為はパワフルに人間関係を創るのです。

 

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【田中角栄】粋なお金の使い方 その2

 こんにちは。

 

足立佑介です。

 

今回は、田中角栄さんです。

 

第64代内閣総理大臣

 

お金の使い方を見ればその人の偉大さがわかると言います。

 

今回も彼のエピソードです。 

 

 

彼の派内の若手議員が女性問題の清算で、今日中にどうしても100万円が必要ということになったそうです。

ところが、すぐ現金で100万円を揃えることができない状態でした。

 

やむなく田中のもとに電話をかけ、100万円の借金を申し込んだそうです。

話半分まで聞いていた田中は「わかった」と一言。

「金は直ぐに届けさせる」と約束。

30分もすると、田中角栄事務所の秘書が紙袋を届けにきたのです。

それを開けてみると、なんと300万円の現金が入っていました。

 

そして田中角栄の筆による一枚のメモが入っていました。

一、 まず100万円でけりをつけろ
二、 次の100万円でお前の不始末で苦労したまわりの人たちに、うまいものでも食わせてやれ
三、 次の100万円は万一の場合のために持っておけ
四、 以上の300万円の全額、返済は無用である。

 

その若手議員は、涙しながらそのメモを読んだそうです。

 

その後、田中派内で竹下登の創政会の旗揚げ問題が時でも、ビクとも動かなかったそうです。

あの時の300万円の一件で、田中という人物に殉じる腹を固めたということでしょう。

 

お金というものは、人と人との絆にもすごく大きな影響を及ぼすものなのです。

 

 

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【田中角栄】粋なお金の使い方

こんにちは。

 

足立佑介です。

 

今回は、田中角栄さんです。

 

第64代内閣総理大臣

 

お金の使い方を見ればその人の偉大さがわかると言います。

 

彼にもそういったエピソードがあります。

 

彼には関係のないとある代議士で、選挙の後始末でどうしても最低でも300万円が必要だった人物がいました。

 

その代議士は300万円は必須でそれ以上に必要になると考えたそうです。

大平正芳(元首相)のところへ行って「300万円」と提案すると、多めに見積もってきたなと思われ、おそらく200万円ぐらいになりそうだと思ったのです。

 

そして彼は大平のもとへは行かず、田中角栄の事務所を訪れたそうです。

話を聞き終わった田中は、なんと500万円を差し出したのです。

300万円だと思っていたので驚きました。

田中角栄は、「残った金で、選挙で苦労した連中にうまいものでも食わせてやれ」と言ったそうです。

 

この代議士は、夜布団をかぶって泣いたといいます。

 

粋な方ですよね。

そういった一面が周りの信頼を得ていた原因なのでしょう。

 

私もこのように人に対して、粋なお金の使い方をしていきます。

 

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【武田國男】背骨となる精神「誠実さ」

こんにちは。

 

足立佑介です。

 

今回は、武田國男さんです。

 

武田薬品工業元社長。
1962年甲南大学経済学部卒、武田薬品に入社。
1993年社長。
2003年会長。
1999年関西経済連合会副会長。
2003年日本経済団体連合会副会長。
2004年日本製薬団体連合会会長。

 

三男である彼は大学を卒業して武田薬品に入社。
後継ぎである長男は早くから帝王学を学び、副社長にまでなっていました。
彼は傍流の事業部に預けられていました。

しかし、翌年創業200周年を機に社長に昇格し、7代目武田長兵衛を襲名するはずであった長男が46歳で急逝。
父親も長男の後を追うように亡くなってしまいました。

彼は一介の課長でしかなかったが、突然に社長の役職が回ってくるとは夢にも思わなかったそうです。

就任した当時は社内外から「武田はこれで終わりだ」とマスコミにも書きたてられたそうです。
ところが周囲の予想に反し、ローカル企業にとどまるどころか、正解に名を馳せる大企業となったのです。


「グローバルな研究開発型製薬企業」を目指すを合言葉に、本業でない、ビタミン剤、化学、食品、農薬、畜産などの事業は次々に撤収し、本業である医薬品事業に全てを集中させ、次々と改革を断行していきました。

 

そして危機感が全くない、大企業病が蔓延し業績も停滞してした企業が、様々な制度の導入により、見事に戦う集団に改革しました。

 

社長在籍10年の間に製薬業界初の売上高1兆円を達成。
累積利益は9057億円。
株価は1350円から4430円まで上がりました。


窓際扱いされアホボンと言われた國男がこれだけの成果を上げられたのか要因は武田家に先祖代々から受継いでいる「クスリの哲学」があったことではないかと思います。

 

第5代武田長兵衛が定めた5ヶ条の社是が「クスリの哲学」と言われるものです。

一 公にひ国に奉ずるを第一義とすること
一 相和らぎ力を協せ互いにさからはざること
一 深く研鑽につとめその業に倦まざること
一 質実を尚び虚飾を慎むこと
一 礼節を守り謙譲を持すること

 

今の言葉でいえば、「くすりを通じての社会貢献」「切磋琢磨」「本業に徹する」それから「質実」や「礼節・謙譲」ということになります。

そして父親や祖父が「運根鈍」「行不由」「陰徳陽報」という言葉を良く書いていたようで、
要約すると、コツコツと努力すれば必ず報われるという意味になります。

 

それをわかりやすくしようと、いろいろ考えた結果一番わかりやすい言葉が「誠実」という言葉になります。

 

武田が絶対に守り続けなければいけないクスリの哲学は「誠実さ」。

 

武田が200年以上存在できたのも、
「世の中の人々のためになるより良いくすり、画期的な新製品を世界に送り出すこと」

を誠実に取り組んだことにあります。

 

この揺るがない背骨となる精神があったからこそ、大企業病に侵されていた武田薬品を大改革で立て直すことができたのではないでしょうか。

 

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