【中上川彦次郎】強硬手段
こんにちは。
足立佑介です。
本日は、「中上川彦次郎」さんです。
1891年当時、日本最大であった三井組と三井銀行は、経営破綻寸前の状態に追い込まれていました。
政治家や政府高官らと癒着しすぎた結果、巨額の不良貸付を発生させ身動きがとれないでいたのです。
三井家の最高顧問であった井上馨はなんとか事態を打開すべく、大改革をする人間を探してきました。
その男が中上川彦次郎です。
当時37歳。
慶応義塾に学んだ後ロンドンに留学。
帰国後、役人として活躍した後「時事新報」の社長兼編集長として名をあげ、さらに1887年山陽電鉄社長に転じました。
近代的経営で経営再建に取り組むという経歴の持ち主です。
中上川は剛毅そのものの性格で知られていました。
「三井の近代化は政府高官らと癒着を断ち切ることから始めねばならない」と。
まずは陸軍の実力者で後の首相である桂太郎、
さらに後の首相の松方正義公爵の実兄などに貸金の返済を要求。
回収不能とみるや、邸宅を差し押さえて処分するという強硬策を断行。
時の内閣総理大臣伊藤博文の秘書官が来訪し、旅費がすこし不足したので5百円ほど用立ててほしいと言ってきました。
「女好きの伊藤が、祇園の女にでも使うのだな」と察した支店長は、
中上川体制になってからは、こういう類の貸金は一切出来なくなっているのでまずは担保を要求。
「おのれ、なんたる無礼を。」
捨て台詞を残して秘書官は立ち去ったそうです。
こうして三井銀行の経営状態は持ち直していったそうです。
組織の内情を大きく改善したり転換していく際、
時には強硬手段で劇的に変化を起こす必要もあるものです。
【永守重信】情熱で人を動かす
こんにちは。
足立佑介です。
本日は、「永守重信」さんです。
精密小型モーターの開発・製造において世界一のシェアを誇っている日本電産創業者です。
創業当時はどのベンチャー企業とも同じように資金繰りに苦労したそうです。
彼はある銀行の支店長に融資をお願いするが全く相手にしてくれませんでした。
まだ創業して一年もたっていないのだから無理はないのです。
永守は粘るがどう話をしてもだめでした。
最後に「どうしたら貸してくれますか」というと「中小企業金融公庫が貸してくれたら、ウチが半分貸しましょう」といってくれたそうです。
無論これは断り文句です。
しかし彼は直ぐに中小企業金融公庫を訪ねました。
中小企業金融公庫は役所と同じです。
真っ暗な部屋の中で若い職員が何しに来よったとばかりジロリと見てきます。
そして横柄な態度で「御社はまだできて一年もたってない。公庫は、過去2期分の決算書がないと貸せないという規則です」と、あっさり断られたそうです。
彼は怒鳴り出したい気持ちをこらえ、熱心に頼みこんだのです。
二人の声は自然と大きりヒートアップしました。
すると、その後ろにいた調査役が「やかましいが、何をいうとるんだ」
永守は同じ説明を繰り返しました。
答えはやはり「規則だから」の一点張りです。
それでもさらに粘ると次は副長、最後には支店長が出てきたのです。
この支店長が経済評論家となる加藤廣さんでした。
加藤は「まあ、話だけは聞こう」と、支店長室に入れてくれたのです。
そして今までの経過を細かく話すと「実際は規則はそうなのだが、せめて審査ぐらいは出来ないか」と、他の人を集めて説得に当たってくれました。
決算書すらなかったが、結局は、取引先であったNECなどからの評判をたずねてもらい、その信用で3000万円の金を借りることに成功したそうです。
その足で永守は銀行へ行き、「支店長、公庫がOKでしたら貸してくれる約束ですよね。これが書類です」支店長は目を白黒させて驚きました。
「本当に貸してくれたんですか?」と倒れそうになったといいます。
ちなみにこの倒れそうになった支店長は後に日本電産で働くことになるのです。
人との出会いめぐり合わせとは何とも不思議である。
実績がなくとも情熱で人を動かし、頼れる仲間が増えていくのですね。
【浜口直太】情熱を持って挑む
こんにちは。
足立佑介です。
本日は、「浜口直太」さんです。
一流の国際的な経営コンサルタントです。
ある日のビジネスコンテストで自ら考えた事業計画をプレゼンしたところ、
審査員をしていたソフトバンクの孫正義社長が絶賛し投資をしてもいいということになった経験があるそうです。
後で孫社長に何が良かったか聞いてみたそうですが、
「浜口さんの凄い情熱だ」と言われたそうです。
確かに情熱を持って熱く語ったが、事業計画の中身は何もなかったと浜口さんも感じていたそうです。
浜口さん自身もあらゆる経営者を見ていて、事業が成功するかどうかはどれだけの情熱を持って挑むかで決まるといいます。
どんなにいい事業計画があったとしても、それだけでは成功することはないのでしょう。
ましてや資金的な協力を得ようとするならば経営者が情熱を持っていることが必須となるようです。
自分のビジョンからくる日々を生き、情熱を燃やします。
【中曽根康】マメさ part2
こんにちは。
足立佑介です。
本日は、「中曽根康」さんです。
政界で随一の筆まめと言われていました。
そんな彼のマメさエピソード第二弾です。
雑誌、「経済界」の創業者の佐藤正忠は中曽根が総理に就任してから何通も手紙を頂いたといいます。
しかも代筆でなく全て直筆であるというから驚きです。
何もマスコミ対策のためにやっているのではないようです。
その証拠に佐藤は中曽根が若いころよく遊説でご一緒することがあったが、飛行機の中、列車に中でも中曽根はハガキを出して太い文字で書いていました。
それを見せてもらったら、その日に会ったとある著名人への礼状であったといいます。
中曽根から手紙やハガキを頂いたという話は沢山あります。
この筆まめさが相手の心を捉え、宰相への地位におし上げていったのでしょう。
目上の方にお会いしたら、その直後に電話やメールでお礼を伝える。
大事にしていきます。
【中曽根康】マメさ
こんにちは。
足立佑介です。
本日は、「中曽根康」さんです。
元首相。
政界で随一の筆まめと言われていました。
同期で当選した田中角栄元首相に比べると気配りや、人の心を掴むといった人間力の部分では劣ると思われがちですが、筆まめであることにかけては中曽根の方が上であったと言います。
やはり総理になるだけの理由があるのですね。
経済小説作家のパイオニア城山三郎さんが中曽根総理とゴルフをしていたとき、ハーフが終わって昼食をとっている時に、
「騎兵として軍隊にいった作家伊藤桂一さんの戦争小説【静かなノモハン】。
それから、大江健三郎の【新しい人よ眼ざめよ】という本をおすすめしたそうです。
すると横のテーブルから紙ナプキンを持ってきて「へえ」といいながらメモしていたといいます。
それから1週間ぐらいするとハガキが届き、「【静かなノモハン】を読んだけど、とても良かった。いい本を教えてもらった」とお礼の返事があったそうです。
城山は総理が本当に読むのかと思っていたので驚いたといいます。
松下幸之助が晩年私財を投げ打って設立した松下政経塾からは多くの政治家を輩出したことで有名です。
松下幸之助が存命中、松下政経塾の塾生に一番始めに教えることが礼状を書くことであったそうです。
著名な先生が講師としてくるのだから当然かもしれないが、このことを社会に出てからもずっと続けるのとそうでないのとでは大きな違いがあるのでしょう。
マメさと繊細さを大事にして人間関係を構築してきたいものです。
【土光敏夫】情熱と覚悟が人を動かす
こんにちは。
足立佑介です。
本日は、「土光敏夫」さんです。
前回に引き続き同じ方のお話です。
どんなにいい事業計画があったとしても、それだけでは成功することはないでしょう。
ましてや資金的な協力を得るならば、経営者が情熱や熱意を持っていることが必須となります。
彼が石川島芝浦タービンの社長に就任した時、受注はしても運転資金がない状況でした。
そこで何とか銀行に融資をしてもらおうと不退転の決意で挑むのです。
東京駅で駅弁を買い込み、丸の内の第一銀行本店(現ミズホ銀行)に朝一かけつけました。
正門が開くのを待ち受け、後の頭取の長谷川重三郎の席に直行。
長谷川はまだ到着していませんが、近くの椅子でずっと待ったのだそうです。
長谷川が出勤すると、
「今日は、どうしても融資していただきたい」と、開口一番。
「いつも来ていただいておりますが、こういうご時世なので、とてもご要望には応じかねます。どうぞ、お引き取りを」と、長谷川。
「いや、今日は帰らん。この通り、駅弁を買ってきた。貸してくれなければ、明日の夜明けまで頑張りますよ」と、彼はどっかり腰を降ろしてしまったのです。
長谷川は知らんふりして仕事をしているが、土光は動こうとしません。
そのうち長谷川は外出した。帰ってみると、まだ座っています。
昼が近くなり、「一緒に、駅弁を食べましょう」と、長谷川をはじめ、営業部の面々に弁当を配ります。
午後になっても土光は動こうとしません。
夕方になってついに長谷川が音を上げたのです。
「いやあ、参りました。融資をいたしますからお引き取下さい」
彼のの気魄が銀行からの融資を引出すことに成功したのです。
覚悟というものは、言葉せずとも人に伝わっていくものです。
私も情熱と覚悟を握りしめて、事業を拡張させます。
【土光敏夫】公明正大
こんにちは。
足立佑介です。
本日は、「土光敏夫」さんです。
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実績
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東芝の社長となり再建を成功させ第4代経団連会長を務めました。
臨時行政調査会会長に就任して、「増税なき財政再建」を基本理念とした最終答申を出して解散。
その後、臨時行政改革推進審議会の会長を務めました。
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エピソード
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財界の頂点に君臨した男でしたが、横浜市の自宅は古色蒼然とした平屋。
とても財界人の家とは思えなかったそうです。
質素な生活は有名で経団連会長時代でも月10万円で過ごしたといいます。
社長になってもバスと国鉄で会社まで通勤。
贅沢をすることはなく歯ブラシも戦前から50年以上使っていたそうです。
彼ほど公明正大で公私混同がなく、私欲のない男はいなかったと伝わっています。
だからこそ従業員もついてきて会社の再建を成し得たのではないでしょうか。