足立佑介‘s diary

日々の気づきを投稿するブログ。noteもやっておりますのでご覧ください。https://note.com/viability

【田口利八】運輸業界のパイオニア

こんにちは。

 

足立佑介です。

 

今回は、田口利八さんです。

 

月賦で買った中古トラック1台を持ってトラック運送業で身を起こし、西濃運輸を創業した方です。

 

「踏まれても、踏まれても強く野に咲く福寿草

 

春一番福寿草という花が咲きます。
福寿草は長い冬の間、いくたびも雪に押しつぶされながらも、じっと耐え抜いて、やがて花を咲かせて人々に春が来たことを知らせるのです。
この福寿草に自分の歩みを重ねて作ったのが上記の句だそうです。

 

彼は数々の苦境を乗り越えて、業界トップ企業となる西濃運輸を育て上げたのです。

 

今でこそあたりまえである運送業も当時は業界の常識を逸していました。
運輸省に直談判するが当然取合ってくれない状態が続きましたが、トラックの長距離運送の必要性を感じている彼は諦めませんでした。

また来たかといやな顔されても粘りに粘り、通い詰めて20日でついに「まあ、検討してみるから正式申請を出すように」と、運輸官僚を説き伏せて長距離路線の認可を勝ち取ることに成功したのです。

これにより、彼はトラック業界の長距離輸送時代のパイオニアとして名を残したのです。

 

「創業から今日まで、苦しいことの連続だった。それを克服することができたのも、あえて困難な道を選んだのも、春を告げる花・福寿草が教えてくれたものだ。踏まれれば踏まれるほど、たくましく育つ福寿草。私はこの野に咲く福寿草が、好きでたまらない」と、述べています。

 

福寿草の花を見るたびにこの句を思い出しそうですね。

見たことないので、見ても気づかない可能性大ですがw

 

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【山本為三郎】与える人が与えられる②

こんにちは。

 

足立佑介です。

 

今回は、山本為三郎さんです。

 

ビール王、ホテル王と呼ばれた男。

現・アサヒビール社長に就任。
その後、新大阪ホテル、大阪ロイヤルホテルを設立。
東京交響楽団理事長に就任。
昭和41年、実業家として現役のまま、72歳で死去されました。

 

彼は生前、
「大阪の道修町の街は端から端まで薬屋が並んでいるが食うか食われるかの激しい競争ではなく共存共栄の精神で徹してきたのだと思う。これが本当の大阪商人である」と語っていたといいます。

 

また大阪商人の商人訓で「近所に同業ができたら誼みを厚くして相励め」というのがあります。

同業は競争者ではないという精神です。

 

近江商人三方よし「売り手よし、買い手よし、世間よし」も共存共栄の精神から来ているのです。

 

商売を大きく繁盛させたいと思うならば、「自分だけ儲かればいい」「自分だけ生き残ればいい」という考えを捨てることです。

 

与える人が与えられる。

 

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【蘇我理右衛門】与える人が与えられる

こんにちは。

 

足立佑介です。

 

今回は、蘇我理右衛門さんです。

 

安土桃山時代から江戸時代にかけての銅商。

住友財閥の業祖と呼ばれ、家祖と呼ばれる義弟の住友政友とともに、創業者の一人。

 

1590年に銅精錬の修行をした彼は、京都寺町五条に「泉屋」として独立。

若干19歳の頃です。

 

当時の日本の銅精錬の技術では、粗銅に含まれる銀を抜き出すことが出来なかった。

彼は南蛮人に銅と銀の吹き分けが出来る原理を聞いて回り、ついに銅と銀を分ける新技術を習得。

この技術は「南蛮吹き」と呼ばれるようになりました。

 

この技術で泉屋は大いに栄え、銅業界での確固たる地位に。

 

彼が繁栄したポイントは、この銅と銀とを分ける「南蛮吹き」の技術を同業者に惜しみなく教えたのです。

 

技術を公開することで、泉屋は「南蛮吹きの宗家」として尊敬され、大坂は日本の銅精錬業の中心となったのです。

 

彼が世界最古の財閥、住友財閥の業祖と呼ばれる男。

家祖と呼ばれる義弟の住友政友とともに、住友財閥の創業者とされています。

 

400年以上続く、住友財閥のルーツはここです。

 

商売を大きく繁盛させたいと思うならば、「自分だけ儲かればいい」「自分だけ生き残ればいい」という考えを捨てることなのでしょう。

 

与える人が、与えられるのです。

 

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【相馬愛蔵】顧客の人生と共に歩む

こんにちは。

 

足立佑介です。

 

今回は、相馬愛蔵さんです。

 

中村屋の創業者です。

日本初の純インド式カレーを創り、現在も同店のメインメニューとなっています。

 

彼が32歳の時、商家の家系でもなく商売の経験もなかったが、会社勤めは性に合わないということで夫婦で商売をすることを考えたそうです。

 

そんな時に帝国大学前でパン屋をしていたが、経営が厳しくなっていた中村屋の中村店主が店を譲りたいと言ってきたのです。

 

相馬夫妻が店を譲り受けてからが現在の中村屋の創業といわれています。

 

ですが何故、商売に素人の相馬が成功できたのか色々な要素がありますが、

一つにはどこまでも誠実に、従来の商習慣にとらわれず、掛け引きなどもせずお客様本位の正道を貫いたことだと考えられます。

 

このことは関東大震災時の相馬の行動が物語っています。

 

大震災に遭遇はしますが、中村屋は幸運にも被災は免れていました。

 

しかし店頭にはひもじい方々が押し寄せてきます。

彼は商人の義務として、中村屋の社員一同で毎晩徹夜の製造を続けました。

 

そして小麦粉は原価で販売し、パンや菓子は普段よりも1割安く販売したのです。

 

平素のお客様本位の考えがそうさせたのでしょう。

 

ところが結果的に中村屋は震災を機に売上が3、4割増加。

 

後で分かったことだそうですが、他の店の多くが値上げをしていましたが、
中村屋はそれをしなかったことに好感を持った人が増えたということなのです。

 

顧客の人生と共に歩む経営。

とてもかっこいいですよね。

 

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【豊田佐吉】秘庫の鍵はどこに

こんにちは。

 

足立佑介です。

 

今回は、豊田佐吉さんです。

 

明王といわれたトヨタグループの創業者です。

 

最後に彼の残した言葉です。

 

「発明発見とか、創意工夫の世界は、あくまでも広大無辺で、今まで人間の踏み込んだ地域は九牛の一毛にも達していない。その大きな未開の秘庫は『早く扉を開けてくれ』と、中からいつもわれわれに呼びかけている。しかもその扉を開く鍵は、いつも、どこにも、誰の足下にも転がっておるのである」

 

未開の秘庫は、みんなに扉を開けてくれと呼びかけていると言うのです。

 

発明・発見は何も一部の特別な人だけが持っている能力ではないということを感じさせてくれる言葉ですね。

 

ですが、そういった秘庫の鍵はアンテナを立てて努力をしている方の手元にふと現れるのだと思います。

 

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【part4】世界の常識を切り開く者が、世界を前進させる

こんにちは。

 

足立佑介です。

 

今回は、「山下長」さんです。

 

オリンパスの創業者です。

 

「何とか国産の顕微鏡を作りたい」という強烈な思い、夢から始まったそうです。

 

日本の顕微鏡は、明治以来、西洋医学とくに細菌学の発達に伴って、その儒要は急増。

 

しかし、日本では全て外国製品に依存する状態でした。

 

そこで奮起したのが彼でした。

 

今も世界の消化器内視鏡のシェアの70%がオリンパスなのです。

 

社長3代に渡って、損失隠しの問題もありましたがw

 

いつの世も、たった一人のコミットメントが時代を変える。

 

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【part3】世界の常識を切り開く者が、世界を前進させる

こんにちは。

 

足立佑介です。

 

今回は、小平浪平さんです。

 

引き続き時代に変化をもたらした方のエピソードです。

 

 

青年の頃の彼は、明治時代に茨城県の人里離れた鉱山の草深い谷間で粗末な丸太小屋を建て、そこで国産技術で発電機を製作すると決めました。

 

当時の日本で発電機を独力で創るのは、誰にも成しえないような滑稽にも聞こえる話であったそうです。

 

彼の外国に頼らない国産技術の確立に対する情熱は、周りのどんな目も気にせず燃え続けました。

 

何度も試行錯誤をし、ついに日本初の発電機に成功。

 

これが現代の日立の始まりなのです。

 

アップルの始まりは小さな家のガレージからですが、

日立の始まりも人里離れた丸太小屋からだったのです。

 

いつの世も、たった一人のコミットメントが時代を変える。

 

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